いつかこれが全て「自分にとって必要な過去だった」と言えるようになれたら
心療内科にかかり始めたきっかけは、連日続くひどい悪夢でした。幼い頃からとても鮮明な夢を見る方だったのですが、31歳の頃から自分が人に襲われる夢、刺し殺される夢、突き落とされる夢、事故に遭う夢、家族の死体を目撃する夢などを見て、夜中に叫び声をあげるようになりました。当時から結婚の予定があった現在の主人も、連日叫び続ける私をとても心配してくれていました。夢を見るのが怖くて眠れない、眠るのが怖いと思い始め、安定剤や睡眠薬を使用したいと思い病院にかかるようになりました。
当時の私は、結婚とほぼ同時に独立開業を目指していました。主人と私の2人で小さな整体院を持ちました。35歳くらいまでには出産もしたかったので、逆算して「結婚は32歳の春、開業は32歳の秋にしよう。3年で軌道に乗せてスタッフを安定させて、35歳までには主婦業に専念できるようにしよう。」と意気込んでいました。無謀だったかもしれませんが、私と主人が当時勤めていた職場環境や5歳年上の主人の年齢、主人の父のガン治療などのことも考えると、あの時期でなければ店は持てなかったと思いますし、あの時期頑張ったことに後悔はありません。
ただ、結婚と開業準備に明け暮れる毎日に少しずつ疲弊していたのかもしれません。目標が現実になっていく過程はとても有意義でありながら、大きな責任や覚悟を伴うものでした。それらの不安を見て見ぬふりをするように必死で走っていたのですが、前述しました悪夢にうなされる毎日が始まりました。
開業日まであと1ヶ月に迫ったある夏の日、主人の祖母が事故で亡くなるという大きな出来事がありました。裏庭でゴミを燃やしていて衣服に炎が燃え移り、そのまま全身火傷で亡くなるという痛ましい事故でした。主人は高校を卒業してから20年近く一人暮らしで、実家へはお正月に帰省するかしないかという頻度になって久しかったのですが、この祖母の焼死をきっかけに実家へ帰らざるを得ない毎日が追加されました。
実家は私たちの住む東京から片道3時間程度の距離でしたが、お通夜や葬儀はもちろんのこと、ご近所への挨拶や田舎独特の風習で、私と主人が帰省しなければならない日が格段に増えました。開業準備に充てる予定だった時間は大幅に削いでいくしかありませんでした。
逼迫した状況でも実家に迷惑はかけないように、嫁として必死に接してきたつもりですが、突然の事故のせいか親族や周囲は結婚前よりずっと剣呑としていて、「あんたが来てからろくなことがない」等と心無い言葉をぶつけられることもありました。そのうち、あれこれ理由をつけて私と主人を呼び戻そうとする動きが出始めました。開業にも結婚にも大賛成してくれていた義両親が、週に2~3回何かしらの用事を言いつけて私たちに帰ってくるように言いました。開業してからは私ひとりが週2回通う家政婦のような立場になり、その都度、遺品整理や裏庭の片付け、畑仕事や挨拶回り、義父のガン治療の介護や病院の付き添いに奔走するようになりました。
この義実家への対応と、開業して間もない店のことで、毎日がどんどん圧迫されていくように感じていました。加えて、我が家の家事負担は100:0の割合で私一人が行っていました。当時の主人はゴミ出しのひとつも手伝わない人でした。もちろん私が話せば多少の手伝いはしてくれるのですが、作ったばかりの店のことにできる限り専念して欲しかったので、私も主人に家事を頼むことは一切しませんでした。
祖母の焼死から半年程のところで、自分の不調が自分でコントロールできなくなっていく感覚に恐怖し、心療内科に真剣に相談するようになりました。それまではストレスからの不眠という程度にしか自分でも考えていませんでした。最初は鬱と診断されましたが、通院しながらの私の態度の乱高下や周囲との関係のこじれを見て、主治医は双極性障害の診断をしてくれました。日中でも突然泣き叫び始めたり、心配してくれる友人と揉めて喧嘩別れしてしまうような時期もありました。私に寄せられるアドバイスや配慮が微塵も受け取れませんでした。ストレスを理由に大量に飲酒し、そのまま死にたいと口に出すようになっていました。
開業から1年、なんとか店が安定してきた頃、今度は胃ガン治療中の義父が他界しました。胃の摘出は済んでいて前日まで元気だったのに、心臓の大動脈瘤が破裂して亡くなるという、またしても唐突な出来事でした。祖母の焼死から1年が経ってやっと実家が落ち着いたという時期でした。
そこからまた1年、義実家への家事手伝いの日々が始まるのですが、私の不調がそこでピークに達してしまいました。とにかく毎晩毎晩泣き叫ぶほどの恐ろしい悪夢が続きました。叫び声が頻繁すぎてご近所から警察を呼ばれたこともありました。風船が弾けたように自己が抑えきれず、ある日突然、自分の首を吊りました。
幸いにも主人にすぐに見つかり搬送され一命は取り留めましたが、助かった瞬間に「死ねなかった」という無念が強烈に胸に残りました。そこからは月に2~3回、自殺未遂を繰り返すようになりました。ネットで勝手に購入した睡眠薬を数百錠飲み干すというのが一番多いやり方でした。なかでも、救急搬送された病院で点滴を受けながら「瞳孔が開いたまま戻らない。帰せるかわからない。」と説明を受けている主人をよく覚えています。迷惑も心配もかけているのはわかっていましたが、とにかくこのまま逝かせてくれと念じていました。死にきれなかった時に残るのはより一層強い罪悪感と希死念慮だけだからです。
開業から1年半程度で自殺未遂を繰り返す日々。店にも行けなくなりました。仮にもお客様のお身体を健康に導く仕事をしている身分で、鬱や自殺願望があることなどは一切話せませんので、主人と2人でとにかく病気をひた隠しにしてきました。お客様には「実家で介護している」とか「出産準備したくて出勤日を減らしている」とか、それらしい言い訳を繰り返していました。たまに店に出ても、強烈な不安感や恐怖感で全身が震えたり、何も食べていないのに嘔吐を繰り返したりで、笑顔で立っていることも難しくなりました。
病歴も通院歴もまだそこまで長くなかったので、各種お薬も強度や相性などを調整していこうとしている最中でした。また、何度も何度もオーバードースを繰り返していたので、強い薬は出してもらえませんでした。主治医のことは当時から本当に信頼できて、唯一私の病気に理解を示してくれる感謝と尊敬の対象でしたが、今すぐにでも死にたいと思っているような自分には処方される薬は「焼け石に水」という感覚しかありませんでした。自分の自殺未遂のせいとはいえうまく進まない投薬治療が続き、楽になりたい、楽になりたい、楽になりたいと、それしか考えられなくなっていました。
開業から2年が経過した頃、少しずつ生活の乱高下が収まり始めました。一番大きな素養として、私が「治すのをやめた」のが大きい気がしています。
「治すのをやめた」というのは、語弊があるのを承知の上であえてそう書くものです。
私はずっと、店のことも義実家のことも、なんとかしなければならないと思って焦り続けていました。「35歳頃までに店を安定させて出産に臨む」という、自分で決めたリミットにも縛られていました。そのすべてが上手くいかない不安と恐怖に毎日押し潰されそうになっていました。
病気さえ治れば全部うまくいくのに。結婚も開業も義父のガン治療の手伝いも全部頑張れてた自分はどこに消えちゃったんだろう。あんなに接客大好きだったはずなのに。念願の店も持てたのに。頑張れてた私は今どこにいるんだろう。あの頃に戻らなきゃ、早く治さなきゃ、治れば全部うまくいく。今うまくいかないのは全部今の自分のせいだ。こんな自分は大嫌いだ。生きる価値もない、役に立たない自分なんか消えた方がマシだ。
私は、毎日こんな風に思い続けていました。何ひとつうまくいかない絶望感から、何度も何度も死のうとしていました。
病院と並行して、民間療法にも大きなお金を使いました。高額の個人カウンセリング、心理セラピー等ある程度メンタル系医療に近いものから、催眠、除霊、よくわからないサプリメント、風水などなど。改名まで考えていました。とにかく何でもいいから治したい、誰でもいいから私を元に戻してほしい、そんな思いでいました。効果を感じたものは非常に少なく、またその治療法に身を委ねることにも疲れきっていきました。
ある時ふと、そんな空回りの毎日に心が壊れたような気がしました。もう、治らないんだ、そう思った朝がありました。例に漏れず夜中に緊急搬送され、帰宅した朝でした。パンパンに浮腫んだ顔。焦点の定まらない血走った眼。割れた唇。自分で作った火傷の痕。吐瀉物の臭いのする、そんな自分を鏡で見た時でした。「もういやだ」「抜け出したい」と思いました。そして「もう、治らない」と思いました。堕ちるところまで堕ちきったように感じました。
しかしこの「治らない」と思ったことが皮肉にも私に安定をもたらすことになりました。藁をも縋るように駆けずり回っていた民間療法をすべて辞め、よくわからない除霊グッズやサプリメントをすべて捨てました。根拠の乏しい治療関連本も一切合切まとめて処分しました。今思えばこれは「躁転」だったのかもしれません。
この時私が思っていたのは「治らない」ということを認めることでした。無理に治そうとするのを辞め、長期戦を覚悟した瞬間でもありました。つまり、ただ「治らない」ではなく「今は、治らない」と思うことができたのです。
もちろん、寛解や完治を疑うわけではありませんし、私自身もそれを諦めてしまったわけでもありません。「今は、治らない」と認めたことで、無理に急いで治そうとすることや仕事への復帰に焦ることを減らしていくことが出来ました。
さらに「今は、仕方ない」とも思うようになりました。何も出来なくても仕方ない。だって、目を開けて息をするだけで精一杯なのです。生きているだけで精一杯なのです。
開業前から過剰に自分に負担をかけ、避けられない人の死を目の当たりにし、急坂を転がり落ちるように自分の身体を痛めつけていった時期でしたが、開業から2年、闘病から3年で少しずつ自分の生き方を見直すことができるようになってきました。この「今は、治らない」を自分で認めてから、自殺願望が減り、救急車で運ばれるようなことも激減しました。
「今は、治らない」それは私にとってひとつの「達観」のようなものだったのかもしれません。諦めや自暴自棄とは違う、ひとつの冷静な見え方のように感じています。復帰したい気持ち、活躍できない自分への苛立ちや軽蔑、人としての充実を感じられない日々への不安や恐怖、強烈な罪悪感。それらは自分自身が自分に括りつけている「枷」なのかもしれません。
開業から3年、闘病から約4年ほどが経った現在、双極性障害特有のアップダウンはあるものの、自殺未遂や自傷行為、その他自分や周りを壊すようなことはほとんどしないで何とか過ごしています。「35歳で出産」と決めていたリミットも、35歳になった現在まっしろの白紙に戻しました。今の自分ではとても乗り越えられないと判断し、主人とDINKS生活を続けていくことにも少しずつ前向きになり始めています。
全く行けないでいた自分の店にも、平均して週2~3日は仕事に出られるようになってきました。それも、フルタイム勤務は今の自分には無理だと割り切って、毎回数時間だけのパートのようにしています。
イベント事や友人との約束などは今も不安でほとんど出来ません。不調でドタキャンしてしまったり、無理して出かけて翌日反動のように寝込むことが多いので、直前まで予定が立てられません。それはそれで不便ですが、「今の自分はこれで仕方ない」と割り切ることで、無理な計画を立てて周囲を巻き込んだりしなくて済むようになりました。周りに迷惑をかけないことで自分の尊厳を守り、自己嫌悪の要素を可能な限り減らしていく、そんな生活スタイルになってきました。
一方で絶対に外せない予定を厳選し、そこに体調を合わせて調整するようにもなりました。例えばスタッフに支払うお給料の手配など、病気であろうと絶対に守らなければならないことを自分の中で決めて行動するようにしています。
もちろん今でも、あの頃に戻りたいと強く思います。起き上がることも苦痛に感じるような鬱期には、顔を洗うことさえ満足にできない自分に涙が出ます。生きていていいのか疑問に思う日も少なくありません。消えてしまいたいと思う日もまだあります。
それでも、おそらく死ぬよりは生きている方がマシだと思えます。そして、何ひとつ家事もできない私を一度も責めることをしない主人にも感謝しています(そもそも責めないかわりに何ひとつ手伝わないできた人なのですが、最近はゴミ出し程度なら手伝ってくれるようになっています)。
双極性障害を持った自分との付き合い方は、まだ把握しきれていませんし、今後それも変化していくのかもしれません。いつになったら満足な暮らしができるのか、将来への不安も消えることはありませんが、とにかく死なないこと、なんとか生きること、自分を追い込まないことに必死です。
双極性障害になったから、生きることがこんなに大変なんだと(それを当然のようにやっていたんだと)実感しました。まだこの病気になって良かったと言い切ることは出来ませんが、いつかこれがすべて「自分にとって必要な過去だった」と言えるようになれたら、その時私は昔よりもう一段階、自分のことを好きになれるかもしれないと思っています。
深海(ふかみ)
○性別:女性
○年齢:30代後半
○診断名:双極性障害(病歴:発症から約4年、通院歴3年、双極性障害の正式な診断から2年程。)
○現在の職場環境:主婦、夫と営む整体院に週2~3で勤務
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