私の心をかき乱す、周囲の人々からの無遠慮で無責任な発言の背景は、「無知」だったのかもしれない

ある日テレビで、がんになったがん専門医のドキュメンタリーを見た。その医師は普段から患者によりそい、患者の立場に立った診療を心がけていた。ところが実際に自分が病気になってみると、患者のことなんて全然わかっていなかったことを痛感したという。

治療方針に迷い、一日のうちに何度も心変わりをして、ネットサーフィンにハマっては真偽不明な情報の渦に翻弄され、担当医とのコミュニケーションがうまくとれない自分に落ち込む。

「なんだ、わたしと同じじゃないか」と思った。

わたしの頭が悪いだけで、周りの人たちは自分よりずっと色々なことを理解した上で話をしていると思っていたので、この話は少しショックだった。どうやら他人を過大評価しすぎていたらしい。「経験していないことはわからない。」考えてみれば当たり前のようだが、「自分は病気」というフィルターのせいですっかりわからなくなっていた。

自分も含めほとんどの人が経験のないことを知ったつもりで生活し、仕事をしている。それなら親切心か優越感からなのかわからないアドバイスや叱責や嘲笑を、逐一まともに受けとめて傷つく必要なんてないのかもしれない。病気になって、自分の基準がなくなって、ずっと他人の言動に振り回されてきた。これまでの無遠慮で無責任な発言の背景は「無知」だったのかもしれないと思うと、「普通」のハードルが少し下がったような、妙な気分だった。

とはいえ長年のクセだ、わたしは懲りずにまた何度も傷ついてしまうんだろう。それでもできるだけ心に留めておきたいと思う。「他人は完璧、わたしはダメ」というフィルターを少しだけ薄くして、人の話は参考程度、「話半分」くらいで受けとめられるようになりたい。

ところで、最終的にその医師がたどり着いた結論は、いつも自分がやっていた治療法だったという。迷ったときは基本に返る、わたしも同意見だ。